帰らぬ日々、ゆえに狂おしい。
■今月2日目の更新・・・ちゃんと更新しないとなぁ、完全に緩んでました。
■「武士の一分」(渋谷シネパレス)★★★☆6.5
監督:山田洋次 出演:木村拓哉 檀れい 笹野高史 桃井かおり
基本的に山田の映画は好きなほうではない、が、本作「武士の一分」は非常によかったです。昨今のセカチュー的な映画に対するアンチ的作品。話題性のみにこの映画を観にくる人間に「セカチュー」的な映画のつまらなさを教える、そういう意味で木村拓哉というキャスティングも非常に戦略的だと思う。
主人公、下級武士の三村はその職務、殿様の毒見役の任で貝の猛毒に犯され盲目になる、突然の不幸、それを支えるべく妻の加世は自分の身を売る、それを知った盲目の三村は妻と離縁する「俺の知ってる加世はもう死んだ。」その後その妻の相手に決闘を申し込み、その相手を破った後に三村に仕える徳平の計らいにより妻は戻ってくる。と物語としては非常に凡庸なのだが山田は悲劇の中にある諧謔や理不尽さを非常にうまくみせている、さすが。ただラストは三村の表情で終わってほしかった、三村のやるせない表情で・・なぜか?
ラスト彼ら夫婦は決して元のサヤに戻ったのではないということを強調すべきだからである、鳥篭や、つがいの鳥など「形式」をあの頃に戻そうとする三村の行為、「もうあの頃には戻れない」ことを三村自身がわかっているからこそ形式的なのである。三村は何度も加世が、よその誰かに抱かれたことを思い出し、盲目が故の妄想に苛まれる事だろう。「もうあの頃には戻れない」、帰ってきた妻は「俺が知ってる加世」ではなく「俺が知らない加世」であり、それはつまり絶望的に「あの頃の二人には戻れない」ということであるがしかし、それでも尚、二人が共に生きる選択をした。ということに僕たちは何を、思い、馳せるか。
★★★5.0 ★★★☆5.5
「X-MEN」はその「X-MENⅢファイナル」がもうすぐ出るのでそのとき書くけど、面白いです。PLUTO 4 (ビッグコミックス)最新刊で遂に出てきた、天馬博士がいう「間違う頭脳こそが完璧である。」
ロボット・ミュータントの問題はそう遠くない未来にやってくる。「何をもってして人間と呼ぶべきか? どこからどこまでが人間なのか?」多くの映画や小説・漫画・アニメで散々問われてきたこの問題。クローン技術の発達により今後直面する新たな諸問題を私たちは何をどう考え選択していくべきか、もう目の前のことである。
★★★6.0 どこからどこまでが真実なのかは闇の中だがそういう側面からではなく、この映画に911テロ時のリアルタイムのアメリカの表情をみるべき。興味深く面白い。
★★4.0 まぁまぁ、mi1以下mi2以上。
■「抜粋」
「自分が誰も愛するものがなく誰にも愛されてないということを厳然ととらえていてくれ。そしてどうして事が始まったかを忘れんでいてくれ。どうしていまのここにいるのかを忘れんでいてくれ。」(abuque)
関係のディストピア
■一九八三年に開園された東京ディズニーランドについて詳細な分析を行った都市社会学の吉見俊哉は、この人工の空間の徹底して外部を排除する自己完結性の戦略について、それが東京という現代の都市そのもののハイパーリアルな存在の、凝縮されたモデルに他ならないことを見いだしている。(「シュミラークルの楽園」)以上「社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)」91Pより
■暇な人用
スーパーマリオ凄すぎる!
[
大島渚「少年」
「十階のモスキート 」裕也さんにキョンキョンが説教
新「犬神家の一族」
以上編集中に更新でした。
それは、誰にとってみっともないのか。
■が遂にやってきた、カッチョエー!! 編集にも力が入ります。
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賛否ある映画、映画として評価されないのはまぁわかる、俗にいう「映画」の体をなしていないからだろうがしかし・・結論からいえば非常にイイ映画でした。
主人公に感情移入させて何が大切かをわからせるという手法で支持を得ようするタイプ、もしくは感情に訴えることによる「お涙」で本質を濁すようなタイプの映画が跋扈する昨今、この映画は観るものが主人公・松子に感情移入しようとした瞬間に、それを突き放し。「お涙」的シーンが来ると思った瞬間に、そこから突き放される。しかしそれが繰り返し何度も何度も使われる事により、我々は感情移入的鑑賞とは違う鑑賞のポジションに立たされる。そこから見える松子の人生はいっけん悲惨だが非常に豊饒で、いっけん不幸そうだが非常に幸せそうでもあり、いや実際無残な死に方をするわけだがしかし、ついに最後に松子が見る走馬灯はやはり幸せそうで・・・何度も何度も「もうおしまいだ」と思った人生は死ぬまで「もうおしまい」にはならず、本当に「もうおしまい」になった後に彼女を愛した人間が現れるという不条理をそれでも自発的に生きる松子の姿が、周りを、世間を気にした選択をしがちな僕らには眩しい。*1
観終わった後、「あぁこれから訪れるであろう、しょっぱい僕の生もそう悪いことばかりではないかも・・」と思わせる映画が例え「映画」の体をなしていなくてもイイ映画であることに変わりはない。
フィナーレをこんなにはっきり予想して河は河は大きくなる
フィナーレを鮮やかに飾りながら河は河は大きくなる水底のかわいい魚たち 岸辺のおどけた虫たち 中州の可憐な小鳥たち
さよなら さよなら 河は歌う さよなら紅のはぜの葉 くすのきの木陰 白い工場の群れよ
さよなら さよなら 河は歌うさよなら筑後平野の百万の生活の幸を祈りながら河はくだる有明の海へ
筑後川 筑後川 そのフィナーレ ああ
何年前か実家に帰ってドライブ、386号線原鶴温泉手前あたりの風景に「えらい筑後川やん」と感慨に耽った事を思い出す。恐らく荒川と筑後川が似ているのは久留米あたりの筑後川で、僕にとっての筑後川は比良松・杷木間のそれ・・・独り言。
*1:松子の悲惨な人生に比べれば私の人生のほうが幸せだとは全く思えなくむしろ、周りを気にせず自発的で波乱万丈の松子の人生が羨ましくもある。
忘れるのではなく思い出せなくなるのです。
■撮影もうちょいです、もうちょい・・・あとは編集、しかし俺には新型のアイツがいる、明日アイツはやってくるのだ!!
ちょっと余裕がでたので映画紹介。『ストロベリー・ショートケイクス』矢崎仁の新作が評判いい、吉祥寺バウスシアターで12/1まで、レイトショーだけど観にいこうかな。
論理は続くよどこまでも。
■撮影も半分近くを終えました・・
バイバイ哀愁でいと
昨今のノスタルジーブームにいまいち僕が乗り切れないのは、ノスタることを目的として作られた映画よりも、その当時の作品を観たほうが圧倒的に哀しいからで、いやそれをいったら元も子もないよと言われるは承知なのだが・・「北の国から」TVドラマシリーズを10何年振りに再見するにあたり、画面の細部にあの頃の記憶や感情を次々と思い出してしまうわけで、純の着ている服のデザインや雪子叔母さん(竹下景子)の山口百恵風ヘアスタイルなど記号論的「あの頃」もさることながら、あの頃の地方家族の食卓における侘しさの表現なんかはもう圧倒的哀愁で第4話「手紙」で五郎が母からの手紙を燃やしたことを吐露するシーンのあの重い感じは僕の個人的体験とあいまって喪失感なしでは到底見れない、と「北の〜」における個人的再体験はひとまず置きぎみにして(とは言っても個人的な憧憬の探索に過ぎず・・)ではなぜ78年4歳〜81年7歳の頃のおぼろげな記憶、幻のような記憶の時代を僕がひときわ懐かしく想うのかといえばそれは喪失感に他ならないわけで、つまりあの頃にあって、今はもうないものに対する憧憬、そのほとんどはベストテン的歌謡曲に対する憧憬のように一瞬見紛うのだが、それは曲そのものというよりもむしろ、その番組やその曲とともにある感情や記憶だったりするのでつまりそれは隠された記憶への憧憬だったりする・・。
ほんとは「北の国から」からみる社会の変節、カッペにとっての70年代論風なことを書こうと思って書き始めたのだけどまとまってないのでやめときます。
いわゆる昭和の歌謡曲は70年代後半から80年代前半にかけて徐々に消えていきます、前川清や八代亜紀が「孤独」を歌いレコードが売れヒットチャートの上位に位置する状況は松田聖子やたのきんトリオが歌うアイドル歌謡へと取って代わっていくわけですが、70〜80はその昭和歌謡とアイドル歌謡がごちゃ混ぜになった面白い時代でもあったはずです。*1そのあいまいな記憶を思い出す作業と同時に続きはまたボチボチと書くことにします。