さよなら、の後に

2年振りに、ひっそりと復活する諦めの時代です。

文章を書くことができるか不安ですが、映画から離れ、改めて映画や映画のトレイラーなどを見ていると、やはり胸が疼くわけで、ブログのUPの仕方すらも忘れていますが、この度「のんちゃんのり弁」で復活します。もう誰もいないかと思いますが勝手に復活します。

さて「のんちゃんのり弁」はもう昨年の10月頃に観たものでかなり細部の記憶があいまいですが、なかなか書き出せず今に至るわけで、ただ、しかしこの映画を紹介したく参上とあいなりました。前置きはこれくらいにして・・・

この映画のあらすじだけを読むと

「生活力がなくいいかげんな夫と離婚した小巻(小西真奈美)は、小学生の娘・のりこ(佐々木りお)と一緒に、小料理屋で働きながら、夢である弁当屋開業に向かって持ち前のバイタリティで明るく頑張る。」

という、なんだかなぁ・・な、あらすじなので監督の緒方明の力量を知らない人たちからすれば、なかなか手が出ない作品なのであるが、この作品は「バツイチ子持ち女の自立奮闘記」なんかでは決してない。ストーリーだけを追いかけていると、お弁当が美味しく描かれていたり、人情味あふれる人間関係がコミカルに描かれていたりと、ハートフルコメディ風ではあるが、我々が見落としてはいけないのは、結局“小巻はひとりだ”という一点である。

やけぼっくいに火がつきかけ、共に弁当屋をやろうと(求婚した)言った、川口建夫(村上淳)のその後は描かれず、店終いした川口写真館の前を何の感傷もなく通り過ぎる小巻の姿。ラスト、娘ののんちゃんが小学校に上がり、小巻の手を離すスローモーションと、のんちゃんが学校へ走り出すショットはいつか、のんちゃんが小巻のもとを離れることを想起させる。それを悲しい表情で見送る小巻は、走り去るのんちゃんにやはり孤独を感じたのではないか。そのうち「かあちゃんののり弁飽きた」と、のんちゃんが言う日の到来を予期させる映画のラストに私は「別れの豊かさ」を感じずにはいられない。

のんちゃんのり弁 通常版 [DVD]

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上手く書くこと、表現することができませんが、リハビリがてらボチボチで更新します。

見逃し続けられる、現在。

nornor082008-02-13

2008年はできるだけ更新します。と言っておきながら、もう既に2月も半ば・・ふがいない私であります。では遅ればせながら・・

07年度ぶっちぎりベスト作品サイドカーに犬は、不動産屋で働く主人公、薫の自分が小学生だった頃(20年前)のひと夏の出来事と、30歳になった今を描くというただそれだけの物語である。

  • 不動産屋で働く薫(ミムラ)は、行きつけの釣り堀に顔を出し、そこにいる女の子との「自転車にいつ乗れるようになったか?」という会話をきっかけに「20年前の刺激的な夏は母の家出で幕をあけた」というナレーションから、薫の20年前のたったひと夏の、長い長い「過去」回想に入る。
  • 母が家出をして、家にやってきたのは、父の愛人ヨーコさん、彼女は緑色のドロップハンドルのサイクリング車に乗る、自由奔放で魅力的なお姉さんだった。そのヨーコさんとの色々な交流を経て(自転車の乗り方を教わったり、二人で旅行に行ったりして)薫(松本花奈:子役)は少しだけ大人になる。母が家に帰ってき、ヨーコさんが家を出て行き、父も家を出て行く・・「夏が終わった、あの時しくじった私は、宝くじで大金を当てることもなく、警察のお世話になることもなく今年30になる」というナレーションで映画はまた「現在」に戻ってくる。
  • 釣り堀を後にする薫(ミムラ)に弟から電話が入る。その会話の中で、弟はヨーコさんが住んでいたアパートを知っていると薫に告げる。後日、薫はその場所に行くのだが、そのアパートがあるはずの場所は駐車場に変わっていた。あまり感傷もなく、その場を去ろうとする薫、そこでふと薫はヨーコさんとのやり取り、(自転車に毎日乗っているヨーコさんが自分のふくらはぎを薫に触らせ「固いでしょ、毎日自転車乗ってるからね」というエピソード)を思い出す。薫は自分のふくらはぎを触り「私も毎日乗ってるよ」と独り言をいい、その場を去る。目の前を緑のサイクリング車が走り去る。薫はその緑のサイクリング車を一瞥するが感傷なく、薫もまた走り去る。

と、これが本作の大まかな流れである。少々物語の説明がプロットっぽくなってしまったのには訳がある。いっけん、多くの物語にありがちな、過去回想構造の映画のようにみえるこの映画は、いわゆるありがちなそれとは決定的に違う。現在と過去、ふたつの物語の主人公である薫、その「現在」の薫(ミムラ)と「過去」の薫(松本花奈)は同一人物なのか? いや、当然同一人物であり「現在」の薫(ミムラ)は「過去」の薫(松本花奈)が成長したその人であるということは絶対的な事実なのだが、問題はこの映画の「現在」の薫の視点と、「過去」の薫の視点の違い、つまり同一人物に「現在」と「過去」というある種、別の視座を持たせているという部分にある。この映画の「現在」パート部分の視点は、当然「現在」の薫(ミムラ)の視点であることはいうまでもない。だが「過去」パート部分の視点は「現在」の薫からの視点ではなく、「過去」の薫(松本花奈)の視点である、という描写にこそ着目し「過去」パートは「現在」の薫が過去を思い出した、あるいは回想しているという設定ではなく、それぞれが独立した「現在の物語」なのだ、という点に留意すべきなのだ。(実際に「現在」の薫が思い出せるヨーコとの20年前のエピソードは「ふくらはぎ」の箇所とその他2、3のエピソードとおぼろげな記憶くらいのものだろう。)

それは「過去」パート部分において「現在」の薫の視座を徹底的に排除している点で明らかだ。父とヨーコさんの関係は非常にあいまいで、愛人関係だと一度も説明されなければ、登場人物のそれぞれの素性も、その後も明らかにされない。子供達は、大人たちそれぞれの関係や、母が出て行くこと、ヨーコさんが去ること、父が去ること、大人たちの悪事や諍い、それらを何となく雰囲気で理解し大人に気を使い、口を挟むこともできない無力な存在として描かれる*1。本作には、そこに「現在」から過去を見るときのいわゆる、古き良きあの頃といった感傷が、一切排除されているのである。あるのは、子供の憂鬱な閉口だけだ。だが「過去」パートに「現在」からの感傷を一切排除したにも関わらず、この映画を観る私たちに押し寄せてくるどうしようもない感傷はいったい何なのか・・
私たちが「過去」を思い出すときのその視座は、あくまで「現在」の私である。がゆえに現在の私にとって、都合の悪かった出来事は悪い思い出として甦ってき、現在の私にとって、都合の良かった出来事は良い思い出として甦ってくる。それは常に、現在からさかのぼるがゆえの良し悪しに過ぎない。未来において現在の立ち位置が変われば、またその良し悪しも変わり、現在の立ち位置において美化され醜化される、そして私たちは、その記憶のほとんどを失っていく。
この映画は私たちに、失ってしまったことをも忘れていること、を気付かせるのだ。それが感傷として私たちに押し寄せてくる。

根岸吉太郎は、昨今の「偽」ノスタルジー映画や、それを観た私たちが「あの頃は良かったなぁ」と感傷に浸ることに対して「本当に良かったか?悪いこともたくさんなかったか?」という別の視座をつきつける。「現代」作家が、過去をあくまで、断固現在的視座で語る。それが唯一の「現代」作家の存在意義であるという私の持論を「サイドカーに犬」は、構造そのもので問うている素晴らしい作品だ。そしてこれらを豊かなこととして表現しきった根岸の細かな演出に、最大の賛辞を贈りたい。*2

ラスト、物語の登場人物同様、薫の「これから」もまた、明らかにされない。目の前を通る緑色のサイクリング車を何げなしに見すごし、自分の行くべき方向へ自転車をこぎ出す薫、これからも忘れていくであろう多くの記憶、感情・・・それでも私はその薫の視線の先にある「未来」の訪れを想像せずにはいられない。

サイドカーに犬 [DVD]

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なんだかまとまりのない、読みにくい文章になってしまいました。。。百聞は一見〜である、是非「サイドカーに犬」をご覧頂きたい。既に観た人ももう一度。

*1:確かにそうだった、私たちは子供の頃、大人に対して、大人の決断やわがままにただ従わされ、何の決定権も持てず、ただただ無口で無力で、憂鬱な気分にさせらるのだ。そして自分の力じゃどうにもできないことがたくさんあることを知った。

*2:薫(松本花奈)が犬のかぶり物を被ってサイドカーに乗っているシーン、こういう演出は根岸ならではだなぁ・・・いいシーン。

曖昧な我々のアイマイな境界線

nornor082007-12-09


「サッド ヴァケイション」(小倉昭和館
監督:青山真治 出演:浅野忠信 石田えり 宮崎あおい 板谷由夏

黒沢清「叫」とともに今年のベスト5に入る作、今までの青山の作品ではベスト。物語の起承転結を超越した、或はそれには回収できない、面白さを追求、かつラストは ど う に か しなければならない(←私の持論)この映画の一連のラストの繋ぎは秀逸。ちょっとだけ吹っ切れた青山真治、女たちの笑顔、素晴らしい、羨ましい。

更新の時間というか余裕があまりないが、この「サッド〜」と「サイドカーに犬」の詳しい評は近いうち必ず書きます。誰も待ってないでしょうが・・・

あと他にも今年観た映画を思い出せる限り羅列してみようかなと、誰も待ってなi〜

あの頃の自分、二人の私

nornor082007-10-26


「サイドカーに犬」](小倉昭和館

監督:根岸吉太郎 出演:竹内結子 古田新太 松本花奈

今のところ今年度ベスト作品、評は近々あげます。観たのは2週間前ですが・・・

登場人物よ、どうか世界を飛び出しておくれ。

コメントを受けて

三谷幸喜の映画(あるいは脚本)の何がつまらないか?結論からいえばそれは三谷の映画に登場する人物の「行動の必然性」それがそのまま三谷幸喜の「脚本の必然性」であるところである。簡単にいえば、登場人物はすべて三谷幸喜という神に踊らされているということであり、それは三谷が目指す方向へ向かって、すべての登場人物が走らされているにすぎなく、誰も三谷の世界から飛び出せない「辻褄しか合わない映画」であるからだ。それは三谷流の演劇的密室=世界の密室性の再現である、というのは完全に誤読で、一連の作品は三谷のご都合主義的な発露だと私は断言する。

以前の「笑の大学」評 http://d.hatena.ne.jp/nornor08/20061011 を踏まえた上で、主人公の検閲官向坂の心理の一貫性の無さをいかに説明するか。最終的にとうとうと「公僕たる私」を主張しておきながら、椿に赤紙が届いた瞬間、「生きて帰ってこい」である、ずっこけである。向坂は己の思考停止した「公僕たる私」的振る舞いが、巡り巡って椿という前途有望な若者を、戦地に向かわせている、ということに全くもって無自覚であるし、椿も椿で、彼は非常に戦略的で頭の良い人間であるにも関わらず、向坂に「生きて帰ってこい」といわれて「ハイ」はありえない、椿は憤慨すべきなのだ。「あなたにそんなこと言われたくない、あなたが私を戦地に赴かせるということを忘れないで下さい」と、向坂は椿を見送った後、「次のかたどうぞ……はい、この劇の上演は許可できません!」と不許可印を押印する……私は登場人物の「行動の必然」つまり「登場人物が三谷の世界を飛び出す」そんな映画が観たい。 デプレシャン「キングス&クイーン」の死んだ父からの恨みの言葉や宮藤官九郎木更津キャッツアイ」第5話のぶっさん死者からの目線などが、私が考える「登場人物が意思をもち、作家の世界を飛び出した」奇跡的な演出である。

ダラダラと、こうあるべきだ!と勝手に何様気取りで述べてきたが、実は三谷映画登場人物の行動原理にいちゃもんをつけるのはナンセンスで不毛だ、その一貫性がないのは当たり前なのである、それはなぜか? そもそも三谷は「人間を描く気など更々ない」からだ。三谷において、登場人物の心理や発言もただのフラグにすぎない*1その個々の面白エピソードをいかに収束して丸く収めるかが三谷にとっての最大の関心事なのだ。「有頂天ホテル」などは、もう言わずもがなだろう。

だがしかし、三谷の初期作品「12人の優しい日本人」や「王様のレストラン」は好きな作品のひとつでもある、三谷には是非もう一度連ドラに挑戦してほしい、ただすでに同じような出自で、三谷的系譜の作家として認識されていた、宮藤官九郎には大きく水を開けられてしまった、といわざるを得ない。クドカンの映画もダメだけど…それでもクドカンは人間を描こうとしている。*2


三谷幸喜の次回作は3分間に10回は笑えるそうです。やれやれ……もしかすると三谷は「これが面白いということなんだよ!」と我々を教育(洗脳)しようといているのかもしれない、向坂が椿に「笑」の教育を受け、面白くなかった「笑」が面白いと思えるようになったように。

*1:この物語上「検閲」が必要→検閲といえば戦時中…なんとまぁ浅はかな、戦時中である必然性はただ「検閲」のためだけに…

*2:宮藤官九郎評はいずれ。

どうしようもない私

悲望

悲望

一気に読了、著者と同じような体験をしたことがある私としては(私の場合は小学生時代だが)「早く諦めてあげなよ!」という空気感、クラス中の女子の「某さんがかわいそう」的言動、目線の中での学校生活がひどく惨めだったことを思い出した。私のせいで辛い思いをしている、その某さんをかわいそうだと思うこともよくあった。当時の担任(女性)に「あんた、いい加減にしなさい!」と怒られひどく落ち込んだこともあった・・・

私の個人体験記は置いても、本作「悲望」は傑作である。今後何度も読み直すだろう。*1

*1:本文中の「片思いと一神教」を読みたい、どっかにないかなぁ。