登場人物よ、どうか世界を飛び出しておくれ。

コメントを受けて

三谷幸喜の映画(あるいは脚本)の何がつまらないか?結論からいえばそれは三谷の映画に登場する人物の「行動の必然性」それがそのまま三谷幸喜の「脚本の必然性」であるところである。簡単にいえば、登場人物はすべて三谷幸喜という神に踊らされているということであり、それは三谷が目指す方向へ向かって、すべての登場人物が走らされているにすぎなく、誰も三谷の世界から飛び出せない「辻褄しか合わない映画」であるからだ。それは三谷流の演劇的密室=世界の密室性の再現である、というのは完全に誤読で、一連の作品は三谷のご都合主義的な発露だと私は断言する。

以前の「笑の大学」評 http://d.hatena.ne.jp/nornor08/20061011 を踏まえた上で、主人公の検閲官向坂の心理の一貫性の無さをいかに説明するか。最終的にとうとうと「公僕たる私」を主張しておきながら、椿に赤紙が届いた瞬間、「生きて帰ってこい」である、ずっこけである。向坂は己の思考停止した「公僕たる私」的振る舞いが、巡り巡って椿という前途有望な若者を、戦地に向かわせている、ということに全くもって無自覚であるし、椿も椿で、彼は非常に戦略的で頭の良い人間であるにも関わらず、向坂に「生きて帰ってこい」といわれて「ハイ」はありえない、椿は憤慨すべきなのだ。「あなたにそんなこと言われたくない、あなたが私を戦地に赴かせるということを忘れないで下さい」と、向坂は椿を見送った後、「次のかたどうぞ……はい、この劇の上演は許可できません!」と不許可印を押印する……私は登場人物の「行動の必然」つまり「登場人物が三谷の世界を飛び出す」そんな映画が観たい。 デプレシャン「キングス&クイーン」の死んだ父からの恨みの言葉や宮藤官九郎木更津キャッツアイ」第5話のぶっさん死者からの目線などが、私が考える「登場人物が意思をもち、作家の世界を飛び出した」奇跡的な演出である。

ダラダラと、こうあるべきだ!と勝手に何様気取りで述べてきたが、実は三谷映画登場人物の行動原理にいちゃもんをつけるのはナンセンスで不毛だ、その一貫性がないのは当たり前なのである、それはなぜか? そもそも三谷は「人間を描く気など更々ない」からだ。三谷において、登場人物の心理や発言もただのフラグにすぎない*1その個々の面白エピソードをいかに収束して丸く収めるかが三谷にとっての最大の関心事なのだ。「有頂天ホテル」などは、もう言わずもがなだろう。

だがしかし、三谷の初期作品「12人の優しい日本人」や「王様のレストラン」は好きな作品のひとつでもある、三谷には是非もう一度連ドラに挑戦してほしい、ただすでに同じような出自で、三谷的系譜の作家として認識されていた、宮藤官九郎には大きく水を開けられてしまった、といわざるを得ない。クドカンの映画もダメだけど…それでもクドカンは人間を描こうとしている。*2


三谷幸喜の次回作は3分間に10回は笑えるそうです。やれやれ……もしかすると三谷は「これが面白いということなんだよ!」と我々を教育(洗脳)しようといているのかもしれない、向坂が椿に「笑」の教育を受け、面白くなかった「笑」が面白いと思えるようになったように。

*1:この物語上「検閲」が必要→検閲といえば戦時中…なんとまぁ浅はかな、戦時中である必然性はただ「検閲」のためだけに…

*2:宮藤官九郎評はいずれ。