見逃し続けられる、現在。

nornor082008-02-13

2008年はできるだけ更新します。と言っておきながら、もう既に2月も半ば・・ふがいない私であります。では遅ればせながら・・

07年度ぶっちぎりベスト作品サイドカーに犬は、不動産屋で働く主人公、薫の自分が小学生だった頃(20年前)のひと夏の出来事と、30歳になった今を描くというただそれだけの物語である。

  • 不動産屋で働く薫(ミムラ)は、行きつけの釣り堀に顔を出し、そこにいる女の子との「自転車にいつ乗れるようになったか?」という会話をきっかけに「20年前の刺激的な夏は母の家出で幕をあけた」というナレーションから、薫の20年前のたったひと夏の、長い長い「過去」回想に入る。
  • 母が家出をして、家にやってきたのは、父の愛人ヨーコさん、彼女は緑色のドロップハンドルのサイクリング車に乗る、自由奔放で魅力的なお姉さんだった。そのヨーコさんとの色々な交流を経て(自転車の乗り方を教わったり、二人で旅行に行ったりして)薫(松本花奈:子役)は少しだけ大人になる。母が家に帰ってき、ヨーコさんが家を出て行き、父も家を出て行く・・「夏が終わった、あの時しくじった私は、宝くじで大金を当てることもなく、警察のお世話になることもなく今年30になる」というナレーションで映画はまた「現在」に戻ってくる。
  • 釣り堀を後にする薫(ミムラ)に弟から電話が入る。その会話の中で、弟はヨーコさんが住んでいたアパートを知っていると薫に告げる。後日、薫はその場所に行くのだが、そのアパートがあるはずの場所は駐車場に変わっていた。あまり感傷もなく、その場を去ろうとする薫、そこでふと薫はヨーコさんとのやり取り、(自転車に毎日乗っているヨーコさんが自分のふくらはぎを薫に触らせ「固いでしょ、毎日自転車乗ってるからね」というエピソード)を思い出す。薫は自分のふくらはぎを触り「私も毎日乗ってるよ」と独り言をいい、その場を去る。目の前を緑のサイクリング車が走り去る。薫はその緑のサイクリング車を一瞥するが感傷なく、薫もまた走り去る。

と、これが本作の大まかな流れである。少々物語の説明がプロットっぽくなってしまったのには訳がある。いっけん、多くの物語にありがちな、過去回想構造の映画のようにみえるこの映画は、いわゆるありがちなそれとは決定的に違う。現在と過去、ふたつの物語の主人公である薫、その「現在」の薫(ミムラ)と「過去」の薫(松本花奈)は同一人物なのか? いや、当然同一人物であり「現在」の薫(ミムラ)は「過去」の薫(松本花奈)が成長したその人であるということは絶対的な事実なのだが、問題はこの映画の「現在」の薫の視点と、「過去」の薫の視点の違い、つまり同一人物に「現在」と「過去」というある種、別の視座を持たせているという部分にある。この映画の「現在」パート部分の視点は、当然「現在」の薫(ミムラ)の視点であることはいうまでもない。だが「過去」パート部分の視点は「現在」の薫からの視点ではなく、「過去」の薫(松本花奈)の視点である、という描写にこそ着目し「過去」パートは「現在」の薫が過去を思い出した、あるいは回想しているという設定ではなく、それぞれが独立した「現在の物語」なのだ、という点に留意すべきなのだ。(実際に「現在」の薫が思い出せるヨーコとの20年前のエピソードは「ふくらはぎ」の箇所とその他2、3のエピソードとおぼろげな記憶くらいのものだろう。)

それは「過去」パート部分において「現在」の薫の視座を徹底的に排除している点で明らかだ。父とヨーコさんの関係は非常にあいまいで、愛人関係だと一度も説明されなければ、登場人物のそれぞれの素性も、その後も明らかにされない。子供達は、大人たちそれぞれの関係や、母が出て行くこと、ヨーコさんが去ること、父が去ること、大人たちの悪事や諍い、それらを何となく雰囲気で理解し大人に気を使い、口を挟むこともできない無力な存在として描かれる*1。本作には、そこに「現在」から過去を見るときのいわゆる、古き良きあの頃といった感傷が、一切排除されているのである。あるのは、子供の憂鬱な閉口だけだ。だが「過去」パートに「現在」からの感傷を一切排除したにも関わらず、この映画を観る私たちに押し寄せてくるどうしようもない感傷はいったい何なのか・・
私たちが「過去」を思い出すときのその視座は、あくまで「現在」の私である。がゆえに現在の私にとって、都合の悪かった出来事は悪い思い出として甦ってき、現在の私にとって、都合の良かった出来事は良い思い出として甦ってくる。それは常に、現在からさかのぼるがゆえの良し悪しに過ぎない。未来において現在の立ち位置が変われば、またその良し悪しも変わり、現在の立ち位置において美化され醜化される、そして私たちは、その記憶のほとんどを失っていく。
この映画は私たちに、失ってしまったことをも忘れていること、を気付かせるのだ。それが感傷として私たちに押し寄せてくる。

根岸吉太郎は、昨今の「偽」ノスタルジー映画や、それを観た私たちが「あの頃は良かったなぁ」と感傷に浸ることに対して「本当に良かったか?悪いこともたくさんなかったか?」という別の視座をつきつける。「現代」作家が、過去をあくまで、断固現在的視座で語る。それが唯一の「現代」作家の存在意義であるという私の持論を「サイドカーに犬」は、構造そのもので問うている素晴らしい作品だ。そしてこれらを豊かなこととして表現しきった根岸の細かな演出に、最大の賛辞を贈りたい。*2

ラスト、物語の登場人物同様、薫の「これから」もまた、明らかにされない。目の前を通る緑色のサイクリング車を何げなしに見すごし、自分の行くべき方向へ自転車をこぎ出す薫、これからも忘れていくであろう多くの記憶、感情・・・それでも私はその薫の視線の先にある「未来」の訪れを想像せずにはいられない。

サイドカーに犬 [DVD]

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なんだかまとまりのない、読みにくい文章になってしまいました。。。百聞は一見〜である、是非「サイドカーに犬」をご覧頂きたい。既に観た人ももう一度。

*1:確かにそうだった、私たちは子供の頃、大人に対して、大人の決断やわがままにただ従わされ、何の決定権も持てず、ただただ無口で無力で、憂鬱な気分にさせらるのだ。そして自分の力じゃどうにもできないことがたくさんあることを知った。

*2:薫(松本花奈)が犬のかぶり物を被ってサイドカーに乗っているシーン、こういう演出は根岸ならではだなぁ・・・いいシーン。