皆が皆、知る必要はない。

悪人

悪人


 久しぶりに小説を一気通読、吉田修一では一番好きな「破片」とはスケールが違うので比較はできないけど、やはり吉田の群像モノは面白い。

ただ残念な箇所が一点、物語中、ある登場人物らが逃亡生活を送る、彼らは携帯電話をもっていて、警察は彼らの居場所を特定できず、手がかりは専ら目撃情報だけなんて、まぁありえない。携帯を使おうが、使わまいが、電源を入れていようが、切っていようがそんなことは関係なく、携帯電話を持っている、ただそれだけでその位置情報を携帯会社→警察は特定できるわけで(ましてや殺人事件ともなればなおさら、即確保)、つまり携帯電話を持っての逃亡劇というドラマは成り立たない。がしかしそれを割り引いても、携帯電話がなければ出会っていなかったかもしれない人々や、携帯電話がなくても出会っていたであろう人々が、出会い、シビレあい、別れる。あるいは、産まれて、生きて、死ぬ。というダイナミズムに感動する。

携帯電話が映画や小説の「ドラマ」を奪って久しいが、それはつまり我々の生活からも予測不可能な「ドラマ」が失われているということであって、その失われていく「ドラマ」が携帯電話を捨てて田舎で暮らそう的予定調和な「ドラマ」であれば何の問題もないのだが、そうではなく、むしろ逆にそういうものが増えていて、それは昨今の「フラガール」を筆頭としたノスタル邦画全般にもいえている。情報化社会、つまり過剰に便利さが追求される現代では「ドラマ」を作ることが難しい、ならば単純にそれらがなかった時代、不便な時代を舞台にした物語をつくればいい、という安易さが、予定調和な「ドラマ」を招いてしまっていて、過便利な現在からフラダンスをみてもあまりシビレない。確かに映画はよくできているが、観終わって何の情感も残らない、それなら「北の国から」か角川映画でも観とくわ、となる。個人的にノスタルジックな青春群像劇は割と、いや結構好きなのだが、「フラガール」には決定的に「現在からあの時代を考察する」という視座、つまり監督の視座が欠けている、ただ昔を懐かしんで終わり、泣けるけど、くだらない。


携帯電話という便利すぎるテクノロジーがあるから「ドラマ」が作れない。のではなく、携帯電話という便利すぎるテクノロジーがあるがゆえに起こる予測不可能な「ドラマ」を作り出す。あくまで断固現在的視座、それが唯一の「現代」作家の存在意義である。
 




映画もそれなりに結構観ているのだけどなかなか批評云々という作がない、のか自分の生活にメリハリがないから批評ができないのか・・・もうちょっとマメに更新するようにしよう。